ミヤコ蝶々(みやこ ちょうちょう)
プロフィール
| 本名: | 日向鈴子(ひゅうが すずこ) |
|---|---|
| 生年月日: | 1920年(大正9年)7月6日 |
| 出身地: | 東京都中央区日本橋小伝馬町 |
| 所属: | 松竹芸能 |
|---|---|
| 芸風: | 漫才コンビ「ミヤコ蝶々・南都雄二」などを経て、晩年は自ら率いる劇団で大阪・道頓堀の劇場「中座」を拠点に活動。 映画やテレビでも女優として活動し、映画「男はつらいよ」シリーズでは車寅次郎の母親役を演じた。 |
| 芸歴: | 7歳の時、演芸好きだった父の意向で旅回りの劇団「都家蝶々一座」を旗揚げ。座長を務める。 1942年(昭和17年)、22歳の時に吉本興業から引き抜かれ、吉本興業入り。漫才コンビ「立花敏夫・ミヤコ蝶々」としてデビュー。会社が売り出すために、デビュー当初から舞台の出演順はトリの前のモタレを任される。 1942年(昭和17年)、三遊亭柳枝と結婚。 終戦後、劇場が焼けて吉本興業が一時休業状態になったため、三遊亭柳枝らと共に「柳枝劇団」を旗揚げ。各地を巡業する。 その後、夫である三遊亭柳枝が劇団の若手女優と浮気したため、同じ劇団員であった弟子の吉村朝治と共に家を出る。後に三遊亭柳枝と離婚し、吉村朝治と結婚。柳枝劇団との契約が切れるまでは三遊亭柳枝と共に舞台に出演していた。 「柳枝劇団」を退団後、当時は疲労回復のため一般の薬局でも販売されていたヒロポンを常用してヒロポン中毒に陥り、禁断症状の治療のため入院。1カ月後に退院。 1948年(昭和23年)、28歳の時に夫である吉村朝治と漫才コンビ「蝶々・トンボ」を結成。 1954年(昭和29年)放送開始の朝日放送「漫才学校」に校長役でレギュラー出演し、人気を得る。吉村朝治も用務員役で出演。 ほどなく吉村朝治が「南都雄二」に改名し、コンビ名も「ミヤコ蝶々・南都雄二」に改名。 1955年(昭和30年)にラジオ放送開始の夫婦対談番組「夫婦善哉」の司会をコンビで務める。番組はラジオで8年間、その後テレビで12年間、計20年間放送された。 1958年(昭和33年)、南都雄二の浮気相手に子どもができたため離婚。その後も夫婦として「夫婦善哉」の司会を続けるため、離婚の事実は伏せられていた。 1969年(昭和44年)、映画「続・男はつらいよ」に車寅次郎の母親役で出演。 1973年(昭和48年)、相方の南都雄二が48歳で死去。 その後、自ら劇団を旗揚げ。大阪・道頓堀の劇場「中座」を拠点に活動。自伝「女ひとり」を執筆し、それを元にした舞台「女ひとり」の定期公演を25年間上演。脚本、演出、主演を務めた。 2000年(平成12年)10月12日に死去。享年80歳。 |
| 備考: | 4歳の時、父が芸者と駆け落ちし、東京から神戸に転居。 松竹芸能に所属していた頃、石井光三がマネージャーを務めた時期がある。 先天的に片方の腎臓が機能していなかったこともあり、晩年は体調不良のため入退院を繰り返した。闘病生活を続けながらも舞台に出演していた。 |
受賞歴
- 1970年(昭和45年)
- 昭和45年度 大阪芸術賞
- 1971年(昭和46年)
- 昭和45年度 第8回 ギャラクシー賞
- 1979年(昭和54年)
- 昭和53年度 現代演劇部門 大阪文化祭賞
- 1979年(昭和54年)3月
- 第30回 昭和53年度 NHK放送文化賞
- 1979年(昭和54年)12月
- (脚本家・日向鈴子として)第8回 上方お笑い大賞 秋田実賞
- 1980年(昭和55年)11月
- 昭和55年度 「スターの広場」手型顕彰
- 1991年(平成3年)12月
- 第20回 上方お笑い大賞 20周年記念特別賞
- 2004年(平成16年)2月27日
- 平成15年度 上方芸能文化顕彰
関連本(書籍・雑誌など)
関連CD(音楽ソフトなど)
関連DVD(映像ソフトなど)
関連ビデオ
関連ゲーム(おもちゃ・ホビーなど)
テレビで見たネタ
関連サイト(公式サイト・ブログなど)
Twitterアカウント
関連のある芸人さん
- ミヤコ蝶々・南都雄二
- 三遊亭柳枝
- 石井光三
作成日:2010年1月22日|更新日: 2010年1月30日
